★痛みや体調不良の原因は鬱病かも

鬱病を「憂鬱な気分になること」とえらえていると、いろんな過ちを起こしてしまう。大塚クリニック(千葉市稲毛区)の大塚明彦院長は、鬱病を神経伝達物質の不足ととらえている。gooニュースより。

 大塚院長が診た患者に、30年間にわたりさまざまな病院を回ったあげく、医師に見放されて寝たきりとなっていたYさんがいる。Yさんは著名な生命科学者で、あまりの痛みに、命をつないでいた点滴による栄養補給をやめようと思い詰めていたが、大塚院長の診察を受け、抗鬱剤などを処方されたところ、1週間で痛みがとれ、寝たきりから歩けるまでに回復した。このときのようすはNHKでも放映され、原因不明の痛みに苦しむ全国の患者から問い合わせが殺到した。

 大塚院長は、Yさんのように病院を転々とする鬱病の患者が少なくない理由のひとつに、鬱病患者には、自分の体の状況について正しい認識ができなくなる「認知障害」があるためとみている。多くの医師は鬱病患者に認知障害があることを知らないため、正しい診断が下せない場合が少なくないという。

気になる人は、以下のチェックをやってみるといい。

(1)寝つきが悪い
(2)眠りが浅くて、目が覚めやすい
(3)よく夢を見る
(4)朝早く目が覚める
(5)疲れやすい
(6)頭痛や頭重がある
(7)肩や首すじがこったり痛んだりする
(8)食欲がなく、物を食べても砂をかむようだ
(9)はきけや嘔吐がある
(10)口がかわく
(11)最近やせた
(12)胃や腸の調子が悪い
(13)便秘(下痢)しがちである
(14)前胸部に圧迫感がある
(15)動悸がする
(16)体のどこかにしびれや感じのにぶいところがある
(17)体のあちこちが痛む
(18)尿の回数が多い
(19)月経が不順である
(20)性欲が低下した
(21)目が疲れやすい
(22)めまいや耳鳴りがする
(23)憂うつで、気持ちが沈みがちである
(24)希望がなく、この世からのがれたい
(25)何をするのもおっくうで、根気がない
(26)頭の回転がおそくなった
(27)記憶力が低下した
(28)注意の集中ができない
(29)いつも不安である
(30)体のことが気になる
(31)くよくよ心配ばかりしている
(32)人中に出るのがいやだ
(33)人並みでなく、気おくれがする
(34)朝目が覚めたとき気分がすっきりしない
(35)朝の方が体の調子が悪く、むしろ午後のほうがよい
(36)いらいらする
(37)何にも興味がない
(38)決断力が低下している
(39)自殺しようと思ったことがある
(40)くり返しこんな状態になる

※合計15カ所以上に「はい」があり、(1)~(4)と(34)(35)のいずれかに「はい」があれば、鬱病の可能性が高い

鬱病を、統合失調症や離人症などとは分離して、内科の病気として診断・治療できれば、もっとたくさんの人が救われるのではないだろうか。いや、単なる素人の考えでしかないけれど。

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★身近なところから、しっかり生きてみよう

いい恋愛をするためには、しっかり生きておくのが、遠いようで近道なんだと思う。「Attribute=51」より一部を参考にした。

ネガティブなことを言わない
ネガティブなことを口にすると、周囲を巻き込んで、そして周囲に自分が巻き込まれて悪循環に陥る。
他人を罵倒しない、足を引っ張らない、恨まない
「罵倒しない」というのは、ネットでは意外と難しい。悪口を書く方が人目に付くし。人の足を引っ張ったり、恨んだりすると、その分、人間が腐敗する。顔がゆがむ。
「辛いときはグチればいい」とか考えない
愚痴を言うのはいいけど、「同僚が悪い」「嫁が悪い」「社会が悪い」という結論なら、その愚痴は自分を腐らせるだけ。「それで、お前はどうしたいんだ?」と聞かれたときに、「でも、ここで頑張る」って言えないような愚痴は止めた方がいい。
意地悪しない
悪意は、悪友をたくさん引き連れて、自分のところに戻ってくる。意地悪をしている人の顔を見るといい。何か変なものがたくさんくっついているから。

自分の育ってきた環境を嘆く気持ちはわかるけれど、そんな自分を救うのもまた自分しかいない。じっくり焦らず、一歩ずつ進んで欲しい。そんな人には、誰かが手をさしのべてくれる。誰もいない?じゃあ、ボクがその役をやる。もしボクのことを気に入ってくれれば、だけど。

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★人生には時間が必要だ

「他人より10年遅れている」と、昔、父は言っていた。家庭の事情で中学を卒業してすぐに働き始めたがために、仕事のやり方がすべて自己流になってしまい、しなくてもいい失敗を繰り返したからのようだ。その父の息子である私もまた、別の理由で他人より10年も社会に出るのが遅れた。

親子そろって、大きな回り道をしていたわけだが、仕事を引退するまでに稼ぐカネの金額や成し遂げることができた仕事の量という点では、こういう回り道は当然マイナスにしかならない。しかし、視点を変えれば、どうだろうか。池田晶子・大峯顯「君自身に還れ」。240ページ。

池田 真理であるならばそれは必ず現れるはずだと、先生仰るわけですね。
大峯 そうです。
池田 そうですか。十年すればわかるかもしれない
大峯 そうそう。そんなに早くわかってもらっちゃ困る(笑)。なま覚りになるから。
池田 とても覚ってませんから。いえ、方角はわかってるんですけれどね。
大峯 だけどね、やっぱりこれには時間がいるんですね。
池田 私はそのために人生があるんだと思っています。
大峯 人生の時間の意味っていうのはそういうことではないかと思う。今すぐには決められないんですよ。

真理、すなわち「ほんとうのこと」を知るためには時間が必要だと言う。まったくそうだと思う。回り道した10年の間に、明らかに「ほんとうのこと」には近づいた気がする。池田のように「方角はわかって」いたとも言えないが、しかし、回り道する前と比べると、「ほんとうのこと」が少しだけわかった。今も、ほんの少しずつだけど、「ほんとうのこと」に歩み寄りつつあるように感じている。とはいえ、「ほんとうのこと」をこの手でつかむことはできない。近づくことができるだけ。どうせこの手につかむことができないなら、いつ死んでも同じ。だから、早死にしないかとおそれることはない。

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★聖書をどう読むか

たいていの宗教には、教典が存在する。すると、必然的に生じてくるのが教典の解釈の問題だ。テクストの理解は解釈を必要とする。宗教の教典のように多義的なものは特にそうだ。池田晶子・大峯顯「君自身に還れ」。200ページ

池田 だからイエスキリストも聖書で、私はメタファーで語るぞ、と最初から言っているんですよ。それをみんな字義通りに受け取ってしまうから。
大峯 そう、だからイエスが水の上を歩いたとかいう聖書の記述でも、奇蹟のように解するけど、あれは要するに、人間というものは信仰によって常識を越えた世界に入れるんだということを言っているんです。あれは各人のことで、何もイエスだけの特別な奇蹟じゃないです。ぼくは聖書の言葉をほとんどそういう具合に読んでいます。でも、非常に教条主義的な信者たちは、それはやはりイエスだけにできたことだというふうに考えますね。

聖書はメタファーだと考えれば、いろんな問題が解決する。イエスは死んだ後、三日後に復活したという記述を読めば、現代人は「そんなバカな」と言う。しかし、何らかのメタファーであると考えるなら、「死んだ後に復活した」と書いてあっても、「正しいものは、一時的になくなったように見えても、すぐに蘇るのだ」とか、「苦しんで得たものは、必ずためになるのだ」とか(これらは、出来が悪い例に過ぎない)、テクストの解釈という段階に移れる。テクストの解釈では、「正しい」「間違っている」の二律背反ではなく、「どの程度正しいか」「説得力があるかどうか」「自分はどう考えるか」といった尺度で物事を考えることができ、正しいか間違っているかの二律背反よりもずっと生産的だろう。

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★アナタも私もいずれ死ぬ

2ちゃんねるのまとめブログ(アルファルファモザイク)より。

誰でも、いつか必ず死んで焼かれて終わり、ということを普段忘れてるもんな…。どんなに幸せな家庭を築こうが、どんな不幸な目に遭おうが、どんなに有名になろうがなるまいが今楽しくても辛くても、行き着く先は遅かれ早かれ必ず死だもんな。/先に死んで行った人達がそうであるように自分が死んでも世の中は何の変化もなく、時代は流れて月日は過ぎていくんだもんな。(本文46)

そう、まったくその通り。死は、交通事故のように、たまたま運の悪い人が遭うものではなく、生まれてきた人全員が必ず出くわすものだ。元記事にもあるが、死ぬことは不幸だとすれば、人間は残らず不幸である。あるいは、人生の最後に不幸に遭遇することになる。それは「不幸」という言葉の定義にそぐわないのではないか。元記事の、次のくだりは記者の浅はかさを露見するものだと思えて仕方がない。まあ、新聞記者では、いくら年を取ってもこの程度かもしれないが。

がんで体を病んでから、例えば家族に手を握られた時のぬくもりといったささやかなことにも幸せを感じられるようになったとすれば、死はその患者にとって不幸なものではなくなっているかもしれない。(中略)結局のところ人生の終わりの幸、不幸は、その時が来てみなければわからない、というよりその時の心の中にしか本当の答えはないのではなかろうか。

問題は、むしろ、「幸福」「不幸」の言葉の定義だよ。もし「幸福」を「老いても、好きになるお金が多いこと」だとすれば、幸福になるのは簡単だ。人から盗んででも、人を騙してでも、蓄財すればいい。それで「幸福になれる」と考える人に言う言葉はない(「それは、真の幸福ではないぞ」という言葉も不要だ。お節介である以上に、それを他人に向かって言うことが間違っているから)。あるいは、世間で、ネットで、自分の名前が取り沙汰されるのを「幸福」だとするなら、あることないこと書きまくって、「釣り」を仕掛けるのがいい。間違っているかもしれないことでも、世間の目を引けばいいのだから、これもまた簡単な話だ。才能は必要かもしれないがね。

しかし、それらに満足できないなら、「ほんとうの幸せって何か」ということが気になるなら、去っていった女のことをいつまでも忘れられないなら、最後には死んでしまうことが気になるなら、「幸福」と「不幸」の言葉の意味について、考え続けることを強くお勧めする。ちなみに、私も考え続けることになるはずだ。

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★幸せになるには

「幸せとは何か」とか「どうすれば幸せになれるか」とかについての言説は、古今東西、枚挙にいとまがない。この問いには、論じる人の立っている場所によって、いろいろな答えがあり得る。「どれが一番正しいのか」というのは意味がないと思う。むしろ、「自分にとって何が必要なのか」を考える方が実りがある。

さて、池田晶子・大峯顯「君自身に還れ」をさらに読み進めていると、こんなところがあった。148ページ。

大峯 幸せっていうものは求めるものじゃないんだな。「幸せっていったい何だろうか」と考える人が幸せになっていくんですね。幸せを生き甲斐、幸せを人生の目的にしなかった人が、顧みると「ああ、自分は幸せな一生だったな」というふうに思うんじゃないでしょうか。(中略)やっぱり、本当のことを知らないと、本当に生きたことにならないものね。(中略)やっぱり本当のものですよ、本当のものに出会ったら人間は満足する。(中略)人間はいつ満足するかというと、嘘でないものに出会ったら満足するんです。

自分自身を振り返ってみると、本当のものに出会ったら、確かに満足する。後悔しない。実生活で本当のものを追い求めるのは難しいが、常に本当のものを求め、それ以外のものを二次的だとすることによって、何か得られるのではないか。お金や名声ではなく、別の何かが。

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★死を乗り越えるために最低限必要なこととは

先日、大学院在学時代の先輩が亡くなった。50歳にまだなっていなかった。いろんなことを教えてくれた人で、私の人生の恩人だ。今のように、文化に関心を持つ生活を送れるようになったのは、その人のおかげだ。数年前に、同じ会社に勤めていた同僚が30歳で亡くなったのを聞いて、とてもショックを受けたが、そのときよりもずっと近い人が亡くなって、しばらくずっと考え込む日々だった。池田晶子・大峯顯「君自身に還れ」90ページ。

大峯 果たして死は万一でしょうか?すべての人が死ぬのに。
池田 100%ですよ。
大峯 100%です。(中略)自覚がなければ死を超えられないですから。死の自覚があって初めて死を超えることができるんであって、自覚がなかったらダメですね。(中略)死に出会ってびっくりして目が覚めて考え始めるんだね。人間に思考を最初に与えてくれるものは死ですよね。
池田 必ず死ですね。そして、変わらぬものと変わらないものへの思索が始まる。
大峯 知は驚きから始まる。驚かないと哲学は始まらない。
池田 「いつまでテキスト読んで哲学やってるの、あんた死ぬんでしょうが」と言ってもわからないんですよ。驚かないもの、驚けとは言えないんですよ。

「私はもうすぐ死ぬ」という自覚なしに死んでしまうことほど不幸なことはないと思う(「もうすぐ」というのは、哲学的な意味合いであって、時間的に5分後とか、そういう意味ではない)。私自身も、アナタも、愛する人も、憎むべき人も、お金持ちも、貧乏人も、優しい人も、犯罪者も、首相も、教祖も、みんな死んでしまう。それこそ、100%の確率で。現に、著者の一人である池田晶子も亡くなった。亡くなった先輩が、そのことを自覚して亡くなったのであればいいのだが。いや、すべては後の祭り。合掌。そして、涙。

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★「私はなぜこんなに不幸なのか」を考える

人生は1つの「物語」だという考え方がある。いや、「歴史」と言った方がいいのかな。物事が単純に並んでいるだけでなく、そこに「解釈」が入り込むことによって、人生はすばらしいものになったり、ひどいものになったりする。「他人の力を借りていいんだよ」(大下大圓、講談社)より。

「自分はどうしてこんなに不幸で、なぜ自分ばかりこんなに苦しまなければいけないんだ」という思い自体、じつは自分が作った1つの物語に過ぎません。その物語を書き換えてしまえば、同じ現実であっても、意味合いがまったく違ってきます。人生は変わらないけれども、人生という名の物語は、いつだって書き換えることができるのです。/人生というのは、あなたがどう生きたいか、あなたが生きたいと思っているかを反映し、その通りの人生になっているのです。(p.119より)

このブログのテーマは恋愛・結婚だから、それに引き寄せて考えてみよう。40過ぎまで結婚できず、自分は「藻男」(モテない男)だと思いたくなるときがある。なぜ、結婚を考えたくなるような女性が現れないのか。あるいは、結婚を考えたくなった女性と、なぜ最後までいけなかったのか。なぜ、踏み込みたくなるタイミングだと思ったときに、相手の女性はいなくなったり、引いてしまったりするのか。どこかでうまくいってもいいじゃないか。

いや、理由はどうでもいい。どうでもいいというのは、それぞれケースバイケースであり、一般化できないからだ。「デレツン」であることがはっきりして、私の方から嫌気がさすこともあったし、相手の病気が判明してダメになったこともあったし、その他、いろいろな理由でダメになってきた。

しかし、いくつかの出会いは、大変貴重なものであった。自分自身を大きく成長させてくれた出会いもあった。結果は残念なものだったが、人生の経験を積むという面からは、うまくいかなかったからこそ味わえたことも少なくない。こと恋愛・結婚という面から見れば、私は「人生を楽しむ」ことは十分でないのかもしれないが、「人生を味わう」あるいは「人生を考える」ことは、それなりに行っているような気がする。

そう、実は私は「人生を楽しむ」ことを良しとせず、「人生を味わう」こと、および「人生を考えること」を求めてきたのかもしれない。もう少し楽しい思いはしたいものだけど、でももっと深い味わいを求め、そして深く考えていきたい。きっと私はそう思っているに違いない。

ううむ、もしかすると、心配しなくても、正しい道を歩んでいるのかもしれないなあ。

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★森岡正博「宗教なき時代を生きるために」読了

しばらく前に森岡正博の「宗教なき時代を生きるために」を読了した。両親がカトリックであるため、もともとは信者なのだが、教会から足が遠のき、宗教そのものから離れてもう20年以上になる。ただ、最近、宗教(あるいは宗教的なモノの考え方)の重要性は感じるようになってきた。特定の宗教の教義解説本は、仏教の入門書を除き、ほとんど読む気にならないが、人間の持つ宗教的なモノの存在理由には強い興味がある。森岡正博は、まったく別のテーマについて書いた本を以前ここで引用したこともあり、注目している思想家の一人である。

で、「宗教なき時代を生きるために」だけど、読んでいて気になった部分を次に引いておく。

唯物論にも陥らず、かといって「信仰」に基づいた宗教の道にも入らずに、それらの問題を自分自身の目と頭と身体と言葉を使って最後まで探求してゆく、そういうやり方があるはずだ。人生は短い。それらの問いの忘却によって、短い人生をつぶしてしまうのではなく、生きている間をかけて、何度も何度も自分のペースで問いを繰り返し問い詰めていく、そういう道があるはずだ。/私は、そういう道を、私なりに模索してゆく。(p.64)

宗教を「信仰」すると、どうしても判断停止、すなわち疑うことを止める必要が出てくる部分が必要となる。それは絶対に避けたい、と森岡は考えているようだ。

あと、私自身の考え方と似通った部分があったので、次に引いておく。

山折哲雄は、「信仰」の世界にはいるか、そうでなければ宗教のことを「観客」として見るか、という二分法を使っていた。私はその図式を批判して、その間をゆく第三の道があるはずだと述べた。/その第三の道の可能性がもしあるとすれば、それは次のようなものであると思う。/それは、生と死や「いのち」や存在の問題に目隠しをする唯物論の社会、科学主義の社会に異議申し立てをしつつも、それらの問題に対する解答を決して宗教の「信仰」には求めず、そしてどこまでも思考放棄せずに、自分の目と頭と身体と言葉を使って自分自身でそれらの問題を考え、追求し、生きていくという道である。そうした生と死と存在の問題の追求を(中略)他者とのコミュニケーションを通じて、自分一人の責任において行い、自分自身の生死に決着を付けていくような道である。(p.58)

森岡が採ろうとしている道は、私も興味がある。しかし、端的に、それはそもそも可能なのだろうか。

話はまったく変わるが、今、松岡正剛の「17歳のための世界と日本の見方―セイゴオ先生の人間文化講義」を読んでいる。昔、「編集工学」という言葉を初めて聞いたときにはとても新鮮に感じたし、松岡の本を読んで目の覚めるような思いをしたのだが、この本にはそれほどの魅力を感じない。なぜかはわからない。読了するまでに、その理由に気づけば良いのだが。

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待つということ

世界中の産業が、ジャストオンタイムで動いていこうとしている。テレビのドキュメンタリーを見ていたら、米国のある靴メーカーの話題が取り扱われていた。

生産拠点は香港近くの工場だ。米国内の小売店での売れ行きによって、生産するタイプと数が決まる。決定すると、発注後、数週間で店頭に並べたい。メーカーのそんな要求に応えるべく、工場は特別体制を組み、運送会社はトラックと船、鉄道、時には飛行機まで動員して、製品を運ぶ。

現代は、消費者に「待つ」ことを期待しない。今、ほしいものを提供し、今、楽しんでもらうために、最大の労力を払う。米国に限らず、日本も事情は同じである。

さて、そういったビジネスでの時間の流れと、全く異なる物差しで測らねばならないのが、子供だろう。「早くしなさい」が口癖の親がいれば、子供のやることをじっと待っていられる親もいる。後者の方が望ましいあり方であるのは言うまでもないが、ジャストオンタイムが重んじられる現代では難しい。

意のままにならないもの、偶然に翻弄されるもの、自分を超えたもの、自分の力ではどうにもならないもの、それに対してはただ受け身でいるしかないもの、いたずらに動くことなくただそこにじっとしているしかないもの。「待つということ」(鷲田清一)

「待つ」ということを、もう一度考え直す時期にきているのかもしれない。

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