« ★クロス(CROSS)のボールペン | トップページ | ★異性を言葉で喜ばせるにはどうすればいいか »

★森岡正博「宗教なき時代を生きるために」読了

しばらく前に森岡正博の「宗教なき時代を生きるために」を読了した。両親がカトリックであるため、もともとは信者なのだが、教会から足が遠のき、宗教そのものから離れてもう20年以上になる。ただ、最近、宗教(あるいは宗教的なモノの考え方)の重要性は感じるようになってきた。特定の宗教の教義解説本は、仏教の入門書を除き、ほとんど読む気にならないが、人間の持つ宗教的なモノの存在理由には強い興味がある。森岡正博は、まったく別のテーマについて書いた本を以前ここで引用したこともあり、注目している思想家の一人である。

で、「宗教なき時代を生きるために」だけど、読んでいて気になった部分を次に引いておく。

唯物論にも陥らず、かといって「信仰」に基づいた宗教の道にも入らずに、それらの問題を自分自身の目と頭と身体と言葉を使って最後まで探求してゆく、そういうやり方があるはずだ。人生は短い。それらの問いの忘却によって、短い人生をつぶしてしまうのではなく、生きている間をかけて、何度も何度も自分のペースで問いを繰り返し問い詰めていく、そういう道があるはずだ。/私は、そういう道を、私なりに模索してゆく。(p.64)

宗教を「信仰」すると、どうしても判断停止、すなわち疑うことを止める必要が出てくる部分が必要となる。それは絶対に避けたい、と森岡は考えているようだ。

あと、私自身の考え方と似通った部分があったので、次に引いておく。

山折哲雄は、「信仰」の世界にはいるか、そうでなければ宗教のことを「観客」として見るか、という二分法を使っていた。私はその図式を批判して、その間をゆく第三の道があるはずだと述べた。/その第三の道の可能性がもしあるとすれば、それは次のようなものであると思う。/それは、生と死や「いのち」や存在の問題に目隠しをする唯物論の社会、科学主義の社会に異議申し立てをしつつも、それらの問題に対する解答を決して宗教の「信仰」には求めず、そしてどこまでも思考放棄せずに、自分の目と頭と身体と言葉を使って自分自身でそれらの問題を考え、追求し、生きていくという道である。そうした生と死と存在の問題の追求を(中略)他者とのコミュニケーションを通じて、自分一人の責任において行い、自分自身の生死に決着を付けていくような道である。(p.58)

森岡が採ろうとしている道は、私も興味がある。しかし、端的に、それはそもそも可能なのだろうか。

話はまったく変わるが、今、松岡正剛の「17歳のための世界と日本の見方―セイゴオ先生の人間文化講義」を読んでいる。昔、「編集工学」という言葉を初めて聞いたときにはとても新鮮に感じたし、松岡の本を読んで目の覚めるような思いをしたのだが、この本にはそれほどの魅力を感じない。なぜかはわからない。読了するまでに、その理由に気づけば良いのだが。

|

« ★クロス(CROSS)のボールペン | トップページ | ★異性を言葉で喜ばせるにはどうすればいいか »

心と体」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: ★森岡正博「宗教なき時代を生きるために」読了:

« ★クロス(CROSS)のボールペン | トップページ | ★異性を言葉で喜ばせるにはどうすればいいか »