« 2007年3月 | トップページ | 2007年6月 »

★結婚するなら必ず結納をせよ

株式会社武蔵野の小山昇社長は、「結婚するなら必ず結納をすること」とアドバイスする。SAFETY JAPANから。

わたしが仲人をした夫婦が別れないのは理由があります。仲人を引き受ける条件が「きちんと結納をすること」だからです。/結納は面倒くさいものです。両家の両親同士を引き合わせ、仲人のわたしにもあいさつに来る。いろいろと大変なことが山積みです。別れるにしても、また、あいさつに来なければならない。別れた2組も例外なくあいさつに来た。/面倒なことを体験しているからこそ離婚しなくなる。「あんな面倒な思いをして結婚したのに、こんな小さなけんかで離婚したら何を言われるか」と考えるからです。簡単にくっついたカップルは、別れるのも簡単です。

「25組の仲人をして2組しか離婚していない」と小山社長が誇っていいものかどうかは、今はさておく。人間は、困難を経て得たものに価値を見いだす傾向にある。たとえば、不倫相手は、そうではない相手よりも魅力的に見えるし、恋敵を打ち負かして手に入れた相手ほど素晴らしく思える。ちょっと変わった例では、大学のサークルで入会前の女子学生に、ポルノ小説を他のメンバーの前で読ませると、入会後の活動が有意義だと思う比率が高まるらしい。また、このブログで「★結婚披露宴は絶対やるべきらしい」ですでに書いたとおり、結納を儀式だととらえれば、儀式を経て結ばれた夫婦はそうでない夫婦よりも離婚率が低いようだ。

とはいえ、我慢することが幸せにつながるとは必ずしも言えない。「あんな面倒な思いをして結婚したのに、こんな小さなけんかで離婚したら何を言われるか」と思って我慢したばっかりに、不幸な一生を送ることになった人もまた少なくないのではないか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

★異性を言葉で喜ばせるにはどうすればいいか

FPNの「コミュニケーションの法則 男性にはSOS・女性にはAUTO」によれば、女性が男性を喜ばせるには、「SOS」が重要だとか。S=「すごい」、O=「教えて」、S=「さすが」だそうだ。

ここでも以前書いたと思うが、女性は男性のプライドを尊重して、何かにつけて「こんなこともできるんだ。すごいわねえ」と言ってあげると、だいたいの男性は機嫌が良くなる。もちろん、乱発するのはよくないし、その男性にとってあまりにもプリミティブなレベルで誉められると、「バカにしてるのかよ」と思うことはある。しかし、男性の能力をきちんと評価するだけの材料を少しでも持った上で、「あなたのこういうところがすごいと思うの」と言われて何とも思わない男性は、それほど多くない。「なんだ、男って単純なのね」と女性は思うだろうが、残念ながら大半の男性はそのくらい単純である。「さすが」もほぼ同じ。

「ココがわからないの。教えてくれる?」というのも男性へのアプローチとしてはいい。ただ、「すごいわねえ」に比べると、使い方が難しい。男性の詳しい分野について尋ねるのは、逆に良くないかもしれない。たとえば、パソコンオタクの男性にパソコンのことを教えてもらうと、「なんだよ、こんなことまで教えなくちゃいけないのかよ」と男性が面倒になるか、逆に男性が女性の忍耐を超えるほど喋りだすか、いずれの危険性も低くはない。

男性が女性を喜ばせるには、「AUTO」が重要だとのこと。A=「ありがとう」、U=「うれしい」、T=「助かった」、O=「(君の)おかげだ」らしい。自分の体験に照らし合わせてみても、それぞれ有効な言葉だとは思うが、上司(男性)が部下(女性)に言いたくなるような言葉なのが、ちょっと気にかかる。女性を喜ばせて気に入られたいなら、男性はごちゃごちゃ作戦を立てるよりは、感謝を言葉にすることを心がけた方がいいと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

★森岡正博「宗教なき時代を生きるために」読了

しばらく前に森岡正博の「宗教なき時代を生きるために」を読了した。両親がカトリックであるため、もともとは信者なのだが、教会から足が遠のき、宗教そのものから離れてもう20年以上になる。ただ、最近、宗教(あるいは宗教的なモノの考え方)の重要性は感じるようになってきた。特定の宗教の教義解説本は、仏教の入門書を除き、ほとんど読む気にならないが、人間の持つ宗教的なモノの存在理由には強い興味がある。森岡正博は、まったく別のテーマについて書いた本を以前ここで引用したこともあり、注目している思想家の一人である。

で、「宗教なき時代を生きるために」だけど、読んでいて気になった部分を次に引いておく。

唯物論にも陥らず、かといって「信仰」に基づいた宗教の道にも入らずに、それらの問題を自分自身の目と頭と身体と言葉を使って最後まで探求してゆく、そういうやり方があるはずだ。人生は短い。それらの問いの忘却によって、短い人生をつぶしてしまうのではなく、生きている間をかけて、何度も何度も自分のペースで問いを繰り返し問い詰めていく、そういう道があるはずだ。/私は、そういう道を、私なりに模索してゆく。(p.64)

宗教を「信仰」すると、どうしても判断停止、すなわち疑うことを止める必要が出てくる部分が必要となる。それは絶対に避けたい、と森岡は考えているようだ。

あと、私自身の考え方と似通った部分があったので、次に引いておく。

山折哲雄は、「信仰」の世界にはいるか、そうでなければ宗教のことを「観客」として見るか、という二分法を使っていた。私はその図式を批判して、その間をゆく第三の道があるはずだと述べた。/その第三の道の可能性がもしあるとすれば、それは次のようなものであると思う。/それは、生と死や「いのち」や存在の問題に目隠しをする唯物論の社会、科学主義の社会に異議申し立てをしつつも、それらの問題に対する解答を決して宗教の「信仰」には求めず、そしてどこまでも思考放棄せずに、自分の目と頭と身体と言葉を使って自分自身でそれらの問題を考え、追求し、生きていくという道である。そうした生と死と存在の問題の追求を(中略)他者とのコミュニケーションを通じて、自分一人の責任において行い、自分自身の生死に決着を付けていくような道である。(p.58)

森岡が採ろうとしている道は、私も興味がある。しかし、端的に、それはそもそも可能なのだろうか。

話はまったく変わるが、今、松岡正剛の「17歳のための世界と日本の見方―セイゴオ先生の人間文化講義」を読んでいる。昔、「編集工学」という言葉を初めて聞いたときにはとても新鮮に感じたし、松岡の本を読んで目の覚めるような思いをしたのだが、この本にはそれほどの魅力を感じない。なぜかはわからない。読了するまでに、その理由に気づけば良いのだが。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2007年3月 | トップページ | 2007年6月 »