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★2番目に好きな人と付き合ってみる

再び市川拓司「そのときは彼によろしく」から。智史は、中学生の時から15年間、自分が花梨のことを好きだったをはっきりと自覚する。

15年、彼女(引用者注:花梨)のことを思い続けてきた。2番目に好きな女性と付き合ってみたりもした。でも、慣れないことをすべきじゃないと、ぼくは思い知らされた。ぼくには複雑な恋は似合わない。と言うかできそうもない。15年なんて、あっという間だ。おそらく45歳のぼくは今日の日のことを思い起こし、きっとそう感じるはずだ。そして、60歳のぼくも、同じように45歳の自分を振り返ってそう思うだろう。ならば、できるだけシンプルに行きたい。あれもこれもって手を出している暇はない。要はそれは容量の問題なのだ。ぼくの引き出しは彼女で手一杯。それだけのこと。(340ページ)

1番目に好きな人がコロコロ入れ替わったり、1番目に好きな人がいなかったりする人----つまり、特に好きでもないのに異性と付き合う人----はシアワセだ。あるいは、1番目に好きな人と大手を振って付き合うことができて、一緒にいられる人はシアワセだ。

しかし、智史のように、1番目に好きな人が心の中の奥深く、もっとも大切なところを完全に占領してしまっているのに、別の人と付き合わねばならない状況に陥る人もいるだろう。そのときの空しさとどうしようもなさは、ほろ苦く心にしみいってくる。天を仰いでも、下を向いてため息をついても、いかんともしがたい。

智史の場合は、智史が花梨のことを愛しているのと同じように、花梨も智史のことを愛していることを知っているから、そしていずれ眠りに就く花梨が目覚めて、自分のところに戻ってくると信じられるから、待つことが楽しくなるのだろう。自分が愛している人が、自分よりも大切なものを持っているとき、そしていくら待っていたとしても自分のもとに戻ってこないとわかっているとき、待つことは、自分が生きている限り続く拷問となる。

花梨がもし智史ではなく、佑司のことが好きだったとしたら、佑司も花梨のことが好きで、佑司と花梨が手を取り合って智史のもとから去っていくようなことになったとしたら----この小説の筋からは、まったく外れてしまうが----、いったい智史はどう考えるだろうか。それでも花梨のことを思い出すのが楽しいだろうか。いや、きっとそんなことはあるまい。

いったいどうしたものやら・・・。

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★亡くなって30年経った伴侶に呼びかける

智史の母は45歳でこの世を去った。そのとき、智史の父は52歳。それから30年近く経った今でも、父は母に対して呼びかけることがある。市川拓司「そのときは彼によろしく」から。

彼女(引用者注:智史の母)の最後の言葉は、「あなた、ほら……」だった。きっと何かを見て、それを私(引用者注:智史の父)に知らせたかったのだろう。楽しみだよ。きっときれいなものなんだろう。二人で散歩しているとき、よく彼女はそう言って私に見せてくれたものだ。道ばたに咲くカタバミの花だとか、夜空に浮かぶ弓張り月だとかをね。いつか、あのとき、何を見たのか、彼女に聞いてみる。

そして、今日もまた、父さんは眠りに就く前に母さんに語りかけるのだろう。そっちはどうだい?って。(192ページ)

離ればなれになってから30年経っても、呼びかけることができる関係。思いが深ければ、そういうことも可能なのかもしれない。この小説では、夫が妻に呼びかけているが、実際は、男性の方がこういう呼びかけは不得手なのかもしれない。

でも、呼びかける場面を想像してみよう。亡くなってから30年も経った伴侶に呼びかける気持ちを想像するのは、まだ少し難しいから、別れて数年経って、二度と会うことのない女性に呼びかけるのを想像してみる。いや、女性に限らなくてもいいかもしれない。あるいは、亡くなった人に限らないかもしれない。呼びかけは「そっちはどうだい?」ではなくて、「今、どうしてる?」「あのときは、どうだったの?」という言葉になるかもしれないが。

あるいは、私は呼びかけて欲しいのかもしれない。(心の)伴侶だった人に、ほんの短い間だったが、心の通い合った(はずの)人に。奇妙な人生だった自分に対して、誰かがきちんと呼びかけてくれるという体験を----そのときにはもう遅いのだが----したいのかもしれない。みなさんは、どうだろうか。

なお、この本は「いま、会いにゆきます」の著者による恋愛小説だが、著者のスキルが上がってきたからか、「いま、会いにゆきます」よりはかなり読みやすい。市川のいいところは、なくなってしまったもの、失ってしまったものに対する思いがよく現れているところだろうか。

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★セックスレスのどこが問題か

夫婦や恋人の間でのセックスレスのどこが問題か(あるいは問題でないのか)、いろいろな見方があるだろう。しかし、女性が男性を拒絶するタイプのセックスレスでは、セックスをともに味わうことによって男性が得られるはずの“女性に受容される快感”を与ないことにより、女性は、知らず知らずのうちに男性を深く傷つけていることがある。岩月謙司「結婚力」から。

男性は、女性から拒否されることが最大の弱点ですから、それを利用するのです。女性からの肯定で最大のものは、食事とセックスです。どちらも肯定のサインの最右翼です。ですから、この2つを拒否したら、暴力をふるう以上に男性に傷を負わせることができます。(147ページ)

セックスを拒否する。食事を作らない。それなりの理由があって、女性はそうするのだろう。男性に原因があることも決して少なくない。とはいえ、それでも、男性にとって、セックスと食事を与えないことが大きなダメージを与え、かなりの確率で“かいしんのいちげき”となってしまうことが多いのだ。

どうすれば解決できるか。素人なりに考えてみると・・・
まずは、男性と女性の双方が“セックスや食事を与えないことは問題である”という理解を共有することが重要だろう。セックスレスに悩む男女の多くが、ここで躓いているのではないだろうか。そして、次にセックスや食事を与えたくない、本当の理由は何であるかを突き止める。男性に問題がある場合や、男性が協力しないと解決しない場合が多いと思われるので、男性もかなり腰を据えて取り組む必要がある。「機嫌の良さそうな時を選んで、触ってみる」などという“対症療法”では、“根治”するのは難しいのではないか。

なお、女性が男性を拒絶するタイプ以外のセックスレスでは、問題の在処が異なるので、きっと解決法も異なるだろうと思う。

逮捕された後の岩月謙司の消息は、ニュースにならなくなってしまったので、よくわからない。彼の“育て直し”については、テレビのドキュメンタリーで放送されたものをちらっと見る機会があったが、正直なところ、あまりいい気持ちはしなかった。あれは第三者に誤解されても仕方ないし、だいたい、治療を望んだ女性があとで告訴するのもあり得る話だと感じた。フロイトは、女性のクライアントが男性の治療者に対して特別な感情を抱きやすいことに気づき、後から問題が起こらないように、女性のクライアントに対しては適切な距離を置くように心がけていたという話を聞いたことがある。岩月は、その話を知らなかったのだろうか。フロイトでさえ、危険には近づかないようにしたのである。歴史は、勉強しておいた方がいい。

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★恋は冷めてしまうが、愛は育つ

20代のカップル、亮介と美緒は携帯電話の出会い系サイトで出会って、付き合い始める。亮介には、高校卒業直後に女性教師と同棲していたが、同棲している間に気持ちが冷めてしまい、女性教師が突然出ていくことで、関係が終わったという過去を持っている。吉田修一「東京湾景」より。

あれほど愛した先生にさえ、飽きてしまった自分の心が信じられずに、どんな愛をも信じられなくなっている亮介と、自分はどこか似ているような気がしてならない。そんな二人が、何も知らぬ振りをして今さら会って、何が始まるというのか。そのときを愉しめばいいと言う人もいる。先のことを考えず、ただそのときを愉しめ、と。でも、二人はもう十分にそのときを愉しんだ。もう、先のことしか、先にはないのだ。(259ページ)

恋は冷める。ある人への熱烈な思いは、冷めて消えてしまうこともある。しかし、愛は飽きたりしない。飽きるのは愛ではない。

愛は、積み重ねていくものだ。一つずつ、一緒に過ごした時間の記憶を積み重ねていき、互いにより近づいていくのが愛だと、私は考えたい。会っているときのときめきは薄れるかもしれないが、さらにぴったりと気持ちや体が重なっていく。それが愛なのだと思う。

ただそのときを愉しむ。確かに、大きな悦びを感じ取りたいなら、ただそのときを愉しめばいい。しかし、刺激によって生じる悦びを求めるなら、常により大きな刺激が必要となってしまう。無間地獄である。

そこから抜け出したいのなら、悦びを奪い取るのではなく、相手に悦びを与えたい。与えることによって、積み重なっていくものが、最終的に二人を温める。亮介と美緒が、互いから奪うのではなく、互いに与え合っていたなら、確実な何かが互いの間に育っていったのではないか。

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★愛は励ましと慰めに分けられる

五木寛之は、愛を「慈悲」の心ととらえ、さらにそれを「慈」と「悲」に分ける。五木寛之「愛に関する十二章」から。

慈の愛と悲の愛、言葉を換えて言えば、励ましと慰め、と言えるのかもしれません。慈の愛は人々を立ち直らせ、勇気づけ、元気づける愛、そして、高いところへ、共に歩いていこうという呼びかけの愛。片方の悲の愛は何も言わずに黙っている、ただ自然にわき上がってくるものが、相手に伝わっていくという無言の愛。(84ページ)

2つの愛には“使い分け”の必要がある、と五木はいう。相手に立ち直る力があり、まだその気力を残しているのなら、慈の愛=励ましでいいが、もはや立ち直る力が残されていないのであれば、悲の愛=慰めが必要となるのではないか。

何も言わずに、そばにいて、相手の顔を見て、黙って、相手の話を聞く。言葉が出ないときはそっと相手の心に寄り添って笑っている。そして、少しでも、自分の方に相手の苦しみが伝わってきますようにと心の中で願う。そういう感情を悲というのです。(85ページ)

いささか単純すぎるきらいはあるが、両方の“愛”を心に秘めて、人に相対していこうと心がけることは悪くないだろう。

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★セックスを鍋料理にたとえると

AV男優の加藤鷹は、セックスを鍋料理にたとえる。鍋料理を作ろうと思えば、まずは鍋が必要だ。だが、鍋だけではもちろんダメで、鍋に出汁を入れて火にかけて、適当に温めねばならない。加藤鷹「カリスマ男優の好きな相手をどうにも離れなくさせる心理戦術」から。

「今日は鍋にでもしようか」って言うけど、それでは鍋だけ用意すればいいかっていったら、そうじゃないわけね。まず、鍋に出汁を入れて火にかけ温める。この温めるのが前戯になる。そして、火加減を調節しながら、いい具合に沸騰させていく。(中略)これが、女性のレベルメーターの反応を見ながら前戯を進めていくことにあたるね。(165ページ)

そして、鍋料理の具が必要になるが、一緒に鍋をつつく人に喜んでもらうためには、その人の好きな具を入れることが重要だ。

鍋に入れるものは、自分が好きなものよりも、相手が食べたいと思うものを入れてあげるのがポイントなわけ。鍋をやるときは、こういう心遣いが大事なんだよ。(中略)キスが大好きな女性にはたっぷり唇、耳、首筋、胸…と唇を這わせてあげるし、指であそこを愛撫されるのが好きな女性にはその通りにしてあげる。(166ページ)

ただし、鍋の決め手は出汁だというのが加藤の持論らしく、「男が女性に対してみせる愛撫や心遣い」が重要だとのこと。ちなみに、鍋は女性そのものにあたるらしい。

こう言われると、「男性ばかり大変なのでは?」と思うかもしれない。では、女性は何をすればいいのか。

女性は、鍋も持ってこなくていいし、出汁も取らなくていいし、火も付けなくていい。中身だけ、おいしいおいしいと食べるだけでいい。それが、セックスなんだよ。(166ページ)

まずは「おいしい」と言うこと。これが重要だと思う。恥ずかしがって黙っていてはわからないし、「おいしい」と言うことが男性に対する屈従だと思って、言わないようにするなどもってのほかだ。

このように、セックスにおいては、男性が女性に対して“奉仕”するだけかというと、そうではない。

女性は「今日は私が好きなものを食べたから、明日はあなたの好きなものを私が作ってあげる」となるんだよ。女性は、自分を大切に扱ってくれる人への奉仕の精神は本当に豊かに持っているんだ。それを発揮させるには、こういう手順が必要なわけ。(168ページ)

女性に励まされると、生きる勇気がわいてくる男性は少なくないだろう。私もそういうタイプだ。励ましてもらうためには、セックスに限らず、まず女性に「おいしいもの」を味わわせてあげること。

いつでも誰にでもそうしてあげられるわけではないが、できるだけ心がけたいものだ。

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★三行で綴るラブレター

しばらく前のニュースだが、日本語文章能力検定協会が毎年募集している「心に響く三行ラブレター」の第7回優秀作品が決まった。サイトはこちら

最優秀賞は、佐賀県の47歳男性。

寒くてね 眠れない 赴任地の夜

羊なぞ数えてみても

君が迷い込む

妻への思いだろうか。他の優秀作品も読んでみたが、私もこの作品が一番いいと感じた。

三行60文字以内と言うことで、短歌や俳句よりも形式の縛りが緩いため、文字数の多い作品が見受けられたが、やはり短い言葉に思いをぎゅっと凝縮した方が私は好きだ。

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★幸せになるために必要なこと

元風俗嬢の作家、菜摘ひかるは、作家として認められるようになってからも、男性の性欲の対象になることを「感謝している」と言う。香山リカ「生きづらい<私>たち」から。

恋人との安定した生活にも「これでいいのか?」という疑問を抱き、自分がほしかったのは恋人や幸せな生活と言うよりも、「たとえつかの間であっても確かに手に入れたという実感だけだったんじゃないか」とまで思い、ますます「申し訳ない」という意識を強めるようになるのです。周りの人たちが「そんなことないよ。あなたは人並み以上の幸福を手に入れる権利も価値もある人だよ」と説得しても、彼女はそれを信じることができず、ただ性の対象にされることだけが自分の価値を実感させてくれた、と風俗での日々を思い出したりもします。(107ページ)

香山は、この後、風俗業に就く女性とオーバードーズ(その手のサイトでは、「OD」と略されているらしい)や過食で苦しむ若者との共通点として、「私なんて苦しんで当然」という罪の意識と、自分は罰を受けて当然だと思う「自虐傾向」、そしてそれを乗り越えて自分の価値や存在を認められたいという願望を挙げている。

容姿などに自信がないと口にする女性に、「そんなことないよ。キミはかわいいよ」と言ったことが何度かある。もちろん、そのときは心からそう思って言ったのだが、しかし、きちんと言葉通りに受け取られた記憶はあまりない。こういう言葉は、素直に受け取ってマイナスになることはないと思うのだが。

幸せになるためには、「幸せな自分」を受け入れられることが必須条件なのかもしれない。

(追記)
菜摘ひかるは、数年前にすでに亡くなっているとの情報をいただいた。享年29歳。合掌。

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